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第30話 死人を食う男

Author: なつめ
last update publish date: 2026-08-22 16:54:03

イセラの視線は、リュゼルの右腕から離れなかった。

黒銀色の墓碑紋は、灯石の青白い光を受けても光らない。むしろ周囲の明かりを吸い込むように沈み、皮膚の下へ食い込んでいる。骨の谷を吹き抜ける冷たい風が外套の裾を揺らし、積み上がった無数の骨が微かに擦れ合った。かさり、かさりと乾いた音が続くたび、リュゼルの頭の奥では、まだ消えきらない死者の囁きが薄く重なっていた。

イセラはその音とは別の何かを聞いているように、黒豹の耳を後ろへ伏せた。

「死人を連れてる」

もう一度、低く言う。

「一人や二人じゃない」

リュゼルは腕を下ろしかけたが、イセラの視線がそれを追ったため、止めた。

「連れてるって言われても」

「とぼけるな」

湾曲刀へ手が伸びる。

抜いてはいない。

それでも、いつでも抜ける位置だ。

イセラは一歩だけ距離を取った。

「屍喰らい」

その名を聞いた瞬間、ネフィリアの表情が変わった。

「何ですって?」

声が冷える。

イセラは彼女へ視線を移さない。

「奈落で昔から言われてる怪物だ」

「怪物?」

リュゼルが眉を寄せる。

「死体を食う。死んだ奴の力を奪う。剣士を食えば剣を使えるようになり、術師を食えば
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    イセラの視線は、リュゼルの右腕から離れなかった。黒銀色の墓碑紋は、灯石の青白い光を受けても光らない。むしろ周囲の明かりを吸い込むように沈み、皮膚の下へ食い込んでいる。骨の谷を吹き抜ける冷たい風が外套の裾を揺らし、積み上がった無数の骨が微かに擦れ合った。かさり、かさりと乾いた音が続くたび、リュゼルの頭の奥では、まだ消えきらない死者の囁きが薄く重なっていた。イセラはその音とは別の何かを聞いているように、黒豹の耳を後ろへ伏せた。「死人を連れてる」もう一度、低く言う。「一人や二人じゃない」リュゼルは腕を下ろしかけたが、イセラの視線がそれを追ったため、止めた。「連れてるって言われても」「とぼけるな」湾曲刀へ手が伸びる。抜いてはいない。それでも、いつでも抜ける位置だ。イセラは一歩だけ距離を取った。「屍喰らい」その名を聞いた瞬間、ネフィリアの表情が変わった。「何ですって?」声が冷える。イセラは彼女へ視線を移さない。「奈落で昔から言われてる怪物だ」「怪物?」リュゼルが眉を寄せる。「死体を食う。死んだ奴の力を奪う。剣士を食えば剣を使えるようになり、術師を食えば術を盗む。何百人、何千人と食って、最後には自分が誰だったかも分からなくなる」イセラの琥珀色の瞳が、墓碑紋を睨むように細まる。「身体中に黒い墓印が広がって、最後は人間の形すら失うって話だ」骨の谷の空気が、一段冷たくなった気がした。リュゼルは反射的に右腕を見る。紋様は手首から前腕へ伸びている。最初に現れた頃より、明らかに広がっていた。古代魔獣ヴァルディオスを看取った時。その力と記憶を受け継いだ時。さらに死者溜まりへ近づき、無数の声を聞くようになってから、黒銀色は以前より濃くなっている。最後には人間の形すら失う。その言葉だけが、嫌に耳に残った。「違うわ」ネフィリアが前へ出る。彼女の足元から黒紫色の影が薄く広がった。攻撃ではない。ただ、リュゼルとイセラの間へ割り込むように。「彼は奪っていない」イセラがようやくネフィリアを見る。「随分と信じてるんだな」「知っているだけよ」「何を」「彼がどうやってその力を得たのか」イセラの耳が僅かに動く。「死人本人に聞いたのか?」「そうよ」即答だった。今度はイセラが黙った。骨の谷に、遠くで骨片が崩れる音が響く

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    城を出てから、およそ二時間が過ぎていた。奈落に太陽はなく、空の色で時刻を測ることもできない。それでもリュゼルは歩数と休憩の回数、灯石の燃え方を身体に刻み込むようにして時間を数えていた。最初の一時間ほどは、城の周囲と大きな違いのない岩の通路が続いた。湿った灰色の壁、ところどころに群生する青苔、天井から落ちる冷たい水滴。シュカたちが話していた赤い岩場も通り抜けた。地熱を含んでいるらしく、掌を当てると人肌ほどのぬくもりがあり、そこだけはわずかに硫黄に似た匂いが漂っていた。ネフィリアは何も言わず歩いている。歩幅は一定だった。少なくとも、そう見えるようにしていた。リュゼルは前を向いたまま、背後から聞こえる足音へ意識を向けた。右、左。右、左。革靴が石を踏む音は乱れていない。ただ、最初より一歩ごとの間隔がわずかに長くなっている。呼吸も静かだが、時折鼻から深く息を吸っていた。まだ休ませるほどではない。そう判断し、リュゼルは自然なふりをして歩く速度を少し落とした。すぐ後ろから声が飛ぶ。「私に合わせているの?」「道が悪くなっただけだ」「今までと変わらないけれど」「石が滑る」「乾いているわ」「細かい砂がある」「ないわね」間を置いてから、リュゼルは振り返った。「元気そうだな」ネフィリアは紫紺の瞳を細めた。「喧嘩を売っているのなら買うわよ」「元気ならいい」それだけ言って前へ向き直る。背後で小さく息を吐く音がした。怒ったのか、呆れたのかは分からない。ただ、歩調はそのままになった。やがて通路の幅が広がり始めた。最初に変化へ気づいたのは匂いだった。湿った土とも、腐肉とも違う。乾いた骨を砕いた時に漂う、わずかに粉っぽい匂い。リュゼルは足を止める。灯石を高く掲げた。青白い光が壁面を滑る。そこから何かが突き出していた。白い。細長い。「骨……」近づく。岩壁へ半ば埋もれるように、人間ほどの長さを持つ骨が一本突き出している。大腿骨に見える。だが、太い。人間のものより一回り大きい。さらに灯石を横へ向ける。一本だけではなかった。壁のあちこち。石の割れ目。床。天井近く。数えきれない骨が、岩と一体化するように埋まっている。ネフィリアが隣へ並んだ。「魔物だけではないわね」「ああ」すぐ近くの壁には、明らかに人間の頭蓋骨が

  • 捨てられた荷物持ちは、深淵の王女に唯一の王と呼ばれる   第27話 王女は留守番を嫌がる

    探索に持ち出す道具を長卓へ並べ終えた頃には、広間の床へ淡い紫の光が落ちていた。天井に埋め込まれた王域の結晶灯は時間によって明滅するらしく、眠りから覚めてしばらくすると、夜を模した青黒い色から柔らかな薄紫へ変わる。地上の朝日とはまるで違う。それでも、いつまでも同じ暗闇だった奈落に目安となる光があるだけで、人の身体は不思議と時間を思い出すらしい。子どもたちは食事を終え、水路で顔を洗い、三匹の月角兎は広間の隅に積まれた青苔へ鼻先を埋めていた。リュゼルは長卓の上に水袋を二つ置き、縄を巻き直した。保存食、火口箱、薬草、包帯、解体用の小刀、革手袋、予備の灯石。昨日作った地図は湿気を避けるため革筒に収め、黒鎖短剣は腰へ差してある。死者溜まりそのものへ踏み込むつもりはないが、何が起こるか分からない以上、持てるものは持っていくべきだった。問題は、誰が行くかだった。「俺一人で行く」革紐を締めながら口にした途端、向かい側から冷たい声が飛んだ。「却下よ」リュゼルは顔を上げた。ネフィリアは長卓の反対側に立ち、両腕を組んでいる。封印が完全に解けた今、手首にも足首にも黒い枷はない。数百年にわたって彼女を柱へつないでいた六本の鎖も消え、白い肌には薄い傷痕だけが残っている。黒紫色の簡素な衣服は王域が生み出したものらしく、動きやすい細身の長衣に膝下までの革靴という姿だったが、その立ち方には拘束されていた頃とは違う静かな威厳が戻っていた。「まだ何も説明してない」「説明する前から分かるもの。あなたが一人で死者溜まりへ行こうとしているのでしょう」「中には入らない。周囲を見るだけだ」「昨日も同じようなことを言っていたわね」「実際、そのつもりだ」「あなたの『そのつもり』ほど信用できないものを、私は今のところ知らないわ」子どもたちが朝食の後片づけをしながら、二人のやり取りへ視線を向け始めた。シュカに至っては、水で濡れた皿を布で拭く手を完全に止めている。リュゼルは子どもたちの前で言い争うつもりなどなかったが、ネフィリアの表情を見る限り、こちらが折れなければ静かに終わる可能性は低そうだった。「城を空けるわけにいかないだろ」「なぜ?」「なぜって」「王域の結界は私が外へ出ても消えないわ」「でも、城から離れるほどあんたの魔力は弱くなる」ネフィリアの眉がほんのわずかに上がる。事実だっ

  • 捨てられた荷物持ちは、深淵の王女に唯一の王と呼ばれる   第26話 国には食料が足りない

    水音がするだけで、かつての地下神殿とは別の場所に思えた。《王域形成》が発動する以前、祭室の奥にあった水場は、岩の裂け目から濁った雫が落ちるだけの頼りないものだった。革袋を満たすにも長い時間がかかり、底には細かな砂が沈んだ。今では白灰色の石壁に沿って細い水路が走り、透き通った水が絶えず流れている。指を浸せば冷たく、鼻を近づけても腐臭も鉱物臭もない。崩れかけていた天井は継ぎ目のない黒銀の梁に支えられ、亀裂の奥から魔物が這い込んでくる気配も消えていた。城、とネフィリアは呼んだ。リュゼルには、まだその言葉が自分たちの居場所を指しているという実感がない。王座を思わせる高台があり、広間があり、寝室として使える小部屋がいくつも生まれた。外周には淡い紫色の膜のような結界が張られ、夜ごと聞こえていた獣の唸り声も遠ざかった。石床には冷気を和らげる熱が通り、裸足で歩いても以前ほど足裏が冷えない。それでも、目の前の木皿に載っている肉は増えなかった。リュゼルは切り分けた岩鎧猪の燻製肉を見つめながら、残量を頭の中でもう一度数えた。闇爪狼の干し肉が二袋半。岩鎧猪が一頭分には少し足りない程度。地下茸は食用確認済みのものが十数本。灰牙傭兵団が残した硬い乾燥パンは、子どもたちが無理なく食べられるよう水で戻せば三日分ほどになる。月角兎のために集めた青苔と柔らかな根草も、この周辺では十分な量が採れない。人が七人。月角兎が三匹。満腹を求めなければ、五日。さらに切り詰めれば七日。しかし、切り詰めた先に何があるのか。リュゼルはそこで計算を止めた。「リュゼル」呼ばれて顔を上げる。広間の反対側に座っていたネフィリアが、紫紺の瞳で彼の手元を見ていた。知らないうちに、肉を自分の皿から除けていた。一切れ。二切れ。脇へ寄せてある。「食べて」「あとで食う」「その言い方をする時は、食べないつもりでしょう」「食料の残りを見てただけだ」「それと、あなたの食事を減らすことに何の関係があるのかしら」言葉に詰まった。その間に、向かい側で衣擦れの小さな音がした。一番幼い少女が、自分の皿から肉をつまんでいる。五つか六つほどの年齢にしか見えない小さな手で、燻製肉を半分に裂こうとしていた。固い肉は簡単には千切れず、細い指先が赤くなる。隣に座るシュカの皿へ移そうとしているのだと気づき、リ

  • 捨てられた荷物持ちは、深淵の王女に唯一の王と呼ばれる   第25話 奈落に灯った最初の国

    天井が落ちた。巨大な石塊が黒紫色の魔力に触れた途端、粉々に砕ける。砂塵が一気に舞い上がり、視界が灰色へ染まった。折れた柱が回廊を塞ぎ、床から噴き出した魔力が黒い雷のように壁を走る。「ネフィリア!」リュゼルは叫びながら腕で顔を庇った。返事はない。中心にいるネフィリアは、両足を床へつけてすらいなかった。銀白の髪を逆巻かせ、ほんの少し宙へ浮かんでいる。背中から広がった巨大な黒紫色の翼が、彼女の細い身体に到底収まるとは思えないほどの魔力を放ち続けていた。完全に解放された力。数百年分。本来なら長い時間をかけて身体へ馴染むはずだったものが、一度に戻っている。「シュカ!」奥の部屋へ向かって叫ぶ。「みんな連れて奥へ!」返事。聞き取れない。だが子どもたちの足音が遠ざかっていく。逃げるなら今だった。神殿そのものが崩れている。出口まで走れば、間に合うかもしれない。ネフィリアを置いて。その考えが頭を掠めた瞬間。リュゼルは自分でそれを切り捨てた。できるはずがない。自分が手を伸ばすと決めた。掴むかどうかは彼女に任せる。だが、彼女が掴んだ後でこちらから手を離すつもりはなかった。「ネフィリア!」魔力の奔流へ飛び込む。肌が裂ける。見えない刃で切り刻まれるような痛み。外套が破れる。それでも進む。一歩。二歩。ネフィリアまであと少し。翼が動いた。吹き飛ばされる。背中から床へ叩きつけられた。肺から空気が抜ける。「っ……」起き上がる。右腕の墓碑紋が熱い。完全契約はまだ切れていない。なら。つながっている。彼女がどれほど深い場所に沈んでいても。「もう一回だ」自分へ言い聞かせる。走る。今度は翼が振られる前に飛び込んだ。ネフィリアの身体を抱く。冷たいと思っていた肌が、今は焼けるほど熱かった。「離れ……」声。聞こえた。「ネフィリア?」「離れて……」本人の声。だが苦しげだ。「殺す……」「誰を」「全部……」抱いた身体が震える。黒竜の記憶へ呑まれた自分と似ている。しかしネフィリアの中にあるのは、一人分の記憶ではない。深淵王家。滅びた一族。その血に刻まれた魔力。何百年もの封印。怒り。恐怖。孤独。全部。「渡せ」リュゼルは彼女の背へ手を回す。「魔力を俺へ流せ」契約へ意識を向ける。

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